タイトル:『世界の終わりに、君と見た朝焼け』 第一章:ありふれた幸福の足音 その日、世界はいつも通りに回っていたし、僕たちの未来もどこまでも平凡で、だからこそ確かなものとしてそこにあるはずだった。 「拓海(たくみ)、見て! この指輪、すごく可愛い。いつかこういうの、つけてみたいな」 大学の裏手にある寂れた雑貨屋の店先で、穂乃花(ほのか)はガラスケースに顔を近づけるようにして笑っていた。おもちゃのような、シルバーの細い指輪だった。 「はいはい。社会人になって、最初のボーナスが出たら買ってあげるよ」 「本当? 約束だからね! 忘れたら一生恨むから」 そう言って僕の腕に抱きついてくる穂乃花の髪から、いつも愛用しているシャンプーの、甘い林檎のような香りがふわりと漂う。それが僕の日常であり、僕のすべてだった。 僕と穂乃花は、大学のサークルで出会ってから丸3年になる。 僕は要領が悪く、自分の意見を口にするのが苦手なタイプだったけれど、穂乃花はひまわりのように明るく、いつも僕の手を引いて新しい世界を見せてくれた。 卒業を間近に控え、お互いに内定も決まり、これからは少しずつお金を貯めて、小さなアパートで一緒に暮らし始めよう——そんな、どこにでもある、けれど僕たちにとってはかけがえのない約束をいくつも交わしていた。 異変が起きたのは、初雪が降った12月の初頭だった。 駅の階段を上る途中、穂乃花が突然、胸を押さえてその場にうずくまったのだ。 「……あれ、おかしいな。ちょっと息が苦しいだけ。すぐ治るよ」 青ざめた顔で無理に笑おうとする穂乃花を、僕は半ば強引に病院へ連れて行った。冷たい雨が混じる冬の日のことだった。 白い壁と、消毒液の匂いが充満する診察室。 冷徹な響きを持つ医師の言葉は、僕たちの輝かしいはずの未来を、一瞬で粉々に打ち砕いた。 「特発性拡張型心筋症。心臓の筋肉が徐々に薄くなり、ポンプ機能が低下していく進行性の難病です。残念ながら、現在の医療では根本的な治療は難しく……進行のスピードを遅らせる処置しかできません」 医師が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。 難病? 根本的な治療ができない? ついさっきまで、僕の隣で笑っていた女の子の心臓が、静かに壊れ始めているというのか。 「そっか……。私、病気になっちゃったんだね」 静まり返る診察室で、穂乃花はぽつりと呟いた。その声は震えていたけれど、僕の目をじっと見つめる彼女の瞳には、すでに現実を受け入れようとする、悲しいほどの強さが宿っていた。 第二章:削られていく日常 年が明け、春が来る頃には、穂乃花は大学に通うことも難しくなり、完全に入院生活を送るようになっていた。 病室の窓から見える桜の木が、ピンク色から青々とした新緑へと変わっていくのを、穂乃花はベッドの上でじっと見つめていた。 「ねえ、拓海。もし私の心臓のメーターが、残り10%になったら何がしたい?」 ある日の夕暮れ、彼女はいつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべ、そんな突飛な質問をしてきた。 僕は剥いていたリンゴの手を止め、わざと怒ったような顔をしてみせる。 「またそんな縁起でもないことを言う。そんなメーター、どこにもないよ。もしあったとしても、残りの10%で俺の分のリンゴを剥いてもらうからな」 「えー、ケチ! もっとロマンチックなこと言ってよ。例えば、誰もいない海に連れて行って、とかさ」 冗談めかして笑う彼女の頬は、数ヶ月前よりも明らかに削げ、肌は不自然に白かった。 日に日に、穂乃花の身体からは「日常」が奪われていった。 最初は、一人でトイレに行けなくなった。 次に、固形のお粥さえ喉を通らなくなり、栄養はすべて腕に通された細いチューブから摂取するようになった。 そして夏が過ぎる頃には、自力で起き上がることさえできなくなり、酸素マスクが彼女の顔の半分を覆うようになった。 「ごめんね、拓海。私、どんどん、おばあちゃんみたいになっちゃう」 掠れた声で申し訳なさそうに笑う穂乃花を見るたび、僕の胸は引き裂かれるように痛んだ。 僕が愛した彼女の柔らかな肌は、今や触れるのを躊躇うほどに痩せ細り、あんなに綺麗だった黒髪も、薬の影響で随分と薄くなってしまった。 一番苦しかったのは、彼女の苦痛を何一つ肩代わりできないことだった。 夜中、心臓の痛みに耐えかねて、小さな身体を丸めて声を殺して泣く穂乃花。 「痛い……拓海、痛いよ……助けて……」 背中をさすることしかできない僕は、無力感に押しつぶされそうになりながら、ただ彼女の手を握り続けた。 「ここにいるよ、穂乃花。大丈夫、大丈夫だから」 その言葉が、何の気休めにもならない嘘であることを、僕たち二人が一番よく知っていた。 第三章:世界の終わり 秋が深まり、冷たい木枯らしが窓を叩くようになった10月の夜。 ついに、恐れていたその時が訪れた。 「今夜が山場です。意識があるうちに、伝えておきたいことがあれば……」 主治医の沈痛な面持ちが、すべてを物語っていた。 病室には、規則正しく、しかしどこか弱々しい心電図の「ピッ、ピッ」という音だけが響いている。穂乃花の両親は、部屋の隅で崩れるように泣き崩れていた。 僕はベッドの脇のパイプ椅子に座り、彼女の右手を両手で包み込むように握りしめた。 驚くほど冷たかった。かつて僕を温かく包んでくれたあの手は、もう体温を失いかけていた。 「穂乃花……聞こえる? 拓海だよ」 午前4時。夜が明ける直前の一番暗い時間。 穂乃花のまつ毛が微かに震え、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その瞼が開いた。 焦点の定まらない瞳が、彷徨うように僕の姿を捉える。 「……たく、み……?」 「そうだよ、拓海だよ。ここにいるよ。ずっとそばにいるからね」 穂乃花は、酸素マスクの向こうで、奇跡のように、いつもの優しい微笑みを浮かべようとした。 「私ね……わかるの。もう……メーターが、ゼロに……なっちゃう」 「そんなこと言うな! 嫌だ、行かないでくれ、穂乃花!」 我慢していた涙が、堰を切ったように溢れ出た。僕は彼女の手に額を押し当て、子供のように泣きじゃくった。 「置いていかないでくれ……。君のいない世界で、俺はどうやって生きていけばいいんだよ。約束しただろ、指輪、買ってあげるって……一緒に暮らすって……!」 穂乃花は、かすかな力を振り絞って、僕の指を一本ずつ握り返そうとした。けれど、彼女の指にはもう、僕を握り返すだけの力さえ残っていなかった。 「拓海……泣かないで……。私、拓海に出会えて……本当に、幸せ、だった……」 「穂乃花……っ、うあああ!」 「お願い……私の分まで、生きて……。たくさん……美味しいもの、食べて……綺麗な、もの……見て……」 その時、窓の外が、じわじわと紫から鮮やかなオレンジ色へと染まり始めた。 彼女が何よりも大好きだった、朝焼けの時間だった。 太陽の光が、冷え切った病室を、そして二人の影を、残酷なほど美しく照らし出していく。 「あ……綺麗……」 穂乃花は、窓の外の光を見つめながら、最後の吐息のようにそう呟いた。 ピィィィィィィ——————。 無機質な電子音が、静かな部屋に鳴り響いた。 握っていた手の力が、完全に抜ける。 「穂乃花? ねえ、嘘だろ? 目を開けてよ……穂乃花!」 いくら呼んでも、彼女はもう答えない。さっきまで微かに動いていた胸は、二度と上下することはなかった。 僕は彼女の冷たい身体を抱きしめ、枯れることのない涙を流しながら、ただ叫び続けた。窓から差し込む朝焼けが、僕たちの世界の終わりを、どこまでも優しく、そして容赦なく包み込んでいた。 エピローグ:残された光 穂乃花が亡くなってから、1年が経った。 僕は今、かつて彼女と歩いた大学の裏手を一人で歩いている。 世界は何も変わらない顔をして回っている。僕の隣に、あの甘い林檎の香りがしないこと以外は、すべてが変わらない。 ポケットの中から、小さな箱を取り出す。中にあるのは、あの雑貨屋で見つけた、おもちゃのようなシルバーの細い指輪だ。 結局、本物の指輪を贈ることはできなかった。 ふと顔を上げると、東の空がゆっくりと明るくなり、美しい朝焼けが広がっていくところだった。 「私の分まで、たくさん、綺麗なものを見て」 あの時、彼女が遺した最後の言葉が、風に乗って耳元で聞こえた気がした。 「穂乃花。世界は今日も、大丈夫だよ。こんなに綺麗だよ」 僕は指輪を強く握りしめ、溢れそうになる涙を堪えて、ゆっくりと歩き出した。 彼女が僕にくれた10000%の愛を、この胸に抱えたまま、僕は彼女のいない明日へと、一歩を踏み出す。