画面の向こうにいるのは、あなたの数字を増やすための単なる『アカウント名』ではなく、意志を持ち、感情を持ち、日々を生きている一人の人間である。その当たり前の事実から目を背け、ただ自分の見栄や影響力を大きく見せたいがために、見ず知らずの他人に手当たり次第にボタンを押し続ける『無差別フォロー』という行為は、他者に対する敬意を完全に欠いた、この上なく浅ましく不毛な独りよがりである。 誰かと繋がり、言葉を交わし、互いの作品や考えに共感する。SNSやインターネットの本質的な価値は、そうした地道な関わりのなかに生まれる『本当の繋がり』にこそあるはずだ。それを、アルゴリズムの隙を突くような作業によって、中身のない空虚な数字だけで埋め尽くそうとする姿勢は、自らのアカウントの価値を自ら貶めていることに他ならない。 数さえ多ければ評価される、注目されれば手段は何でもいいという安易な思考停止。それは、他人のタイムラインを自分の都合で汚し、他人の時間を一方的に搾取する、極めて身勝手な迷惑行為である。 いくら数字を積み上げたところで、そこに意志の通った関わりがなければ、それはただの砂上の楼閣だ。誰の心にも届かない、ただの記号の羅列を集めるために必死になっているその姿は、本物の繋がりを築く努力を放棄した、滑稽でくだらない執着であると言わざるを得ない。私はあなたの数字の奴隷ではない。人との関わりを、そんな安っぽいゲームの道具にしないでほしい。 『フォローするなんて個人の自由だ』『嫌ならブロックすればいい』そうやって自分に向けられた批判を『他人の偏屈なマイルール』へとすり替え、自らの身勝手な行動を正当化しようとする反発の言葉は、あまりにも稚拙で、自らの精神的な未熟さを露呈しているにすぎない。 確かにボタンを押すこと自体はシステム上の自由かもしれない。しかし、その自由の行使が、他人の不快感やタイムラインの混乱、そしてコミュニティ全体の信頼関係の毀損の上に成り立っているという現実に、なぜこれほどまでに向き合おうとしないのだろうか。批判の声は、あなたを理不尽に縛るためのものではない。自分の利己的な欲望のために、他者の領域に土足で踏み入るその『配慮の欠如』に対する、極めてまっとうな拒絶の表明である。 自分の行動が誰かを不快にさせていると突きつけられたとき、自身の非を認めるプライドも持てず、ただ『自由』や『多様な使い方』という都合のいい言葉の盾の裏に隠れて逆ギレを繰り返す姿は、滑稽であり、哀れでさえある。それは自由の追求などではなく、ただ自分の幼稚な承認欲求と、他者への想像力の欠如を認められないという、みっともない自己防衛に他ならない。 ルールに書いていなければ何をしてもいい、嫌がる人がいても自分が得をすればそれでいいという思考は、他者と共生する社会、あるいはネットコミュニティの調和を根底から破壊する。どれほど言葉を飾って反論したところで、あなたがやっていることは本質的な繋がりを作る努力からの逃避であり、他人の尊厳を削って自分の数字を膨らまそうとする浅ましい執着である。その頑なな拒絶と的外れな言い訳こそが、あなたの行動をいっそう『くだらないもの』へと貶めていることに、いい加減に気付くべきだ。
結局のところ、中身のない数字を追い求めて他者を道具にし、それを指摘されてもなお保身の言い訳に終始する生き方は、自らの可能性を狭め、ただ虚しさだけを積み上げていく終わりなき泥沼である。私たちがインターネットやこのコミュニティという広大な世界で本当に見出すべきなのは、機械的に膨らませた偽りの影響力などではなく、自らの手で何かを生み出す喜びであり、互いの存在や表現を心から尊重し合える誠実な関わりのはずだ。どれほど他人の目を欺き、見せかけの数字で自分を大きく飾ったところで、そこに魂がこもっていなければ、誰の記憶にも残らず、誰の心をも動かすことはできない。だからこそ、私はそのような安易で不毛な価値観に決して同調しないし、あなたのくだらない数字のゲームに付き合うつもりも毛頭ない。私は、画面の向こうにいる生身の人間と、その人間が紡ぎ出す本物の価値だけを信じ、自分の言葉と表現で、自らの道を歩んでいく。他者をリスペクトできないその空虚な執着とは、ここで完全に決別する。