第七章 幸福 最近のアルベルトは、少しだけ笑うことが増えた。 記憶を失ったはずなのに。 以前より。 ずっと。 楽しそうだった。 「音織」 「なに?」 「今日、エミリーとゲームするんだ」 「へえ!」 アルベルトが嬉しそうに笑う。 その横をエミリーが通り過ぎる。 「……聞こえてるわよ」 「一緒にやろうって言ったじゃん」 「別に、私は暇だから付き合うだけ」 「それって一緒にやってくれるってこと?」 「そういうこと」 エミリーは少しだけ顔を赤くした。 私は。 なんだか嬉しくなった。 ここへ来てから。 初めてだった。 こんなふうに。 普通の友達みたいな会話を聞いたのは。 ゲームセンターは静かだった。 Λ-systemの施設には似合わないくらい。 明るい画面。 電子音。 色とりどりの光。 エミリーとアルベルトは並んでゲームをしている。 「そこ!」 「え、どこ?」 「右!右よ!」 「こっち?」 「違う!」 「あっ」 ゲームオーバー。 エミリーが呆れた顔をする。 「……下手ね」 「ごめん」 「でも」 エミリーは少し笑った。 「次は勝てそう」 「じゃあ、もう一回!」 「ええ」 私は少し離れたところから二人を見ていた。 なんだか。 ここだけ。 普通の世界みたいだった。 それから。 二人はよく一緒にいるようになった。 食堂。 ゲームセンター。 中庭。 図書室。 エミリーが紅茶を飲んでいる隣で、アルベルトが牛乳を飲む。 「また牛乳?」 「背が伸びるかもしれないから」 「もう十分小さいじゃない」 「ひどいなあ」 「事実でしょう」 「エミリーだって小さいじゃん」 「……あなたよりは高いわ」 「それはそう」 二人とも笑う。 私は。 その光景が好きだった。 だから。 気づかなかった。 エミリーがアルベルトを見る目が。 少しずつ変わっていることに。 ある日の夕方。 私は廊下でエミリーを見つけた。 「エミリー?」 「……何?」 「どうしたの?」 「何でもないわ」 顔が赤い。 「熱?」 「違う」 「じゃあ病気?」 「違うってば」 「じゃあ……」 エミリーは黙った。 そして。 小さな声で言った。 「アルベルトのことが好きなの」 「え?」 「……聞こえなかったことにして」 「無理!」 私は笑った。 「告白しないの?」 「できるわけないでしょう!」 「なんで?」 「……怖いのよ」 「何が?」 「断られるのが」 エミリーは俯いた。 「この場所で、やっと大切だと思える人ができたの」 その言葉が。 胸に刺さった。 大切な人。 この場所では。 大切に思った人から。 消えていく。 でも。 私は何も言えなかった。 翌日。 エミリーはアルベルトを呼び出した。 中庭。 風が吹いている。 エミリーは何度も深呼吸していた。 「アルベルト」 「うん?」 「私……」 言葉が止まる。 それでも。 エミリーは顔を上げた。 「あなたが好き」 アルベルトは。 少し驚いた。 「……僕が?」 「そう」 「どうして?」 「わからない」 エミリーは笑った。 「でも、あなたといると楽しい」 アルベルトも笑う。 「僕も」 「……え?」 「エミリーといると楽しい」 少しの沈黙。 そして。 「じゃあ」 アルベルトが言った。 「僕たち、付き合う?」 エミリーの顔が真っ赤になった。 「……馬鹿」 でも。 笑っていた。 「うん」 その日。 二人は恋人になった。 私は。 心から嬉しかった。 その夜。 ルフェアは一人で研究区画を歩いていた。 研究員が報告する。 「成功しました」 「そうですか」 「対象二名は強い相互依存関係を形成しています」 「良い傾向ですね」 ルフェアは微笑んだ。 「幸福とは」 静かに。 甘い声で。 「どれほど美しいものなのでしょうね」 研究員は答える。 「観測対象としては非常に優秀です」 ルフェアは笑った。 「そうですか」 そして。 翌朝。 二人はいなかった。 「……え?」 食堂。 いつもの席。 二つだけ。 空いている。 「エミリー?」 返事がない。 「アルベルト?」 返事がない。 私は研究員へ駆け寄った。 「二人は?」 「移送されました」 「どこへ?」 「研究区画です」 「いつ帰ってくるの?」 研究員は笑った。 「わかりません」 「……なんで?」 「必要な処置ですから」 また。 その言葉。 必要。 私は拳を握った。 幸せだった。 昨日まで。 確かに。 幸せだった。 だから。 消された。 そんな気がした。 その日の夜。 エミリーの紅茶のカップだけが。 食堂の棚に残っていた。 アルベルトがいつも飲んでいた牛乳も。 一本だけ。 冷蔵庫に残っていた。 誰も飲まない。 誰も触らない。 二人がいた証拠みたいに。 ただ。 そこにあった。 私はそれを見ながら。 初めて。 この施設にある幸福は。 長く続かないのだと知った。 そして。 その翌日。 また一つ。 空席が増えた。
第八章 背中 時雨が。 「出よう」 と言った。 その声は。 今まで聞いたことがないくらい強かった。 「ここにいたら、みんな消される」 私は時雨を見る。 「……脱出するの?」 「うん」 時雨は頷いた。 「紫苑も協力してくれる」 「紫苑が?」 「そう」 私は少し迷った。 でも。 もう。 何も信じられなくなっていた。 だから。 信じてみたかった。 夜。 三人で施設の外周へ向かった。 時雨。 私。 そして紫苑。 紫苑はいつもの黒いドレス姿だった。 「本当に出られるの?」 「ええ」 紫苑は笑った。 「大丈夫ですよ」 その言葉。 ルフェアと同じだった。 私は。 少しだけ嫌な予感がした。 「紫苑?」 「何でしょう?」 「……ルフェアは?」 紫苑が振り返る。 「姉ですから」 「だから?」 「よく知っていますよ」 それだけ。 そして。 その瞬間。 背後から。 鋭い衝撃が走った。 「……え?」 時雨の身体が揺れる。 振り返る。 紫苑が立っていた。 その手に。 血の付いた刃。 時雨が倒れる。 「紫苑……?」 私は動けなかった。 「どうして……?」 紫苑は。 笑っていた。 今まで見たことがない。 優しいお姉さんの笑顔じゃない。 もっと。 もっと深い。 何か。 「これが見たかったのよ」 声は穏やかだった。 だからこそ。 怖かった。 「人が希望を持って」 一歩。 紫苑が近づく。 「それを信じて」 もう一歩。 「最後に絶望する瞬間」 笑顔が深くなる。 「……綺麗でしょう?」 研究員たちが現れた。 時雨を抱え上げる。 「やめて!」 私は走った。 逃げなきゃ。 ここから。 でも。 足が止まった。 「音織さん」 ルフェアがいた。 いつから。 そこにいたのか。 わからない。 「こちらへ」 「嫌!」 初めて。 はっきり拒絶した。 ルフェアは怒らなかった。 ただ。 悲しそうに笑った。 「怖かったですね」 「近づかないで!」 「大丈夫ですよ」 甘い声。 「もう怖いことはありません」 「嘘!」 「ええ」 ルフェアは。 否定しなかった。 「嘘だったのかもしれませんね」 その言葉に。 私は止まった。 ルフェアが。 ゆっくり近づく。 「でも」 「私はあなたを捨てません」 その声は。 優しかった。 「誰もいなくなっても」 「私はここにいます」 結城も。 エミリーも。 アルベルトも。 時雨も。 いなくなった。 そして。 私の前にいるのは。 この人だけ。 「音織さん」 ルフェアが手を差し出す。 「もう、疲れたでしょう?」 私は。 その手を。 見つめた。 「……うん」 その瞬間。 何かが。 切れた。 私は。 ルフェアの手を取った。 「いい子ですね」 甘い声。 そして。 私は。 自分から。 Λ-systemの奥へ歩いていった。