第五章 選別 結城がいなくなってから。 施設は、少しだけ静かになった。 静かになったというより。 人の声が減った。 食堂の席が一つ空いている。 図書室の椅子が一つ余っている。 廊下を歩いていても、以前なら聞こえていた笑い声が聞こえない。 それなのに。 Λ-systemの職員たちは、何も変わらない顔をしていた。 朝になれば朝食が出る。 昼になれば昼食が出る。 夜になれば照明が落ちる。 まるで。 結城なんて最初から存在していなかったみたいに。 「……嫌だな」 私は小さく呟いた。 「何が?」 隣にいたエミリーが聞く。 「全部」 「……そう」 エミリーはそれ以上聞かなかった。 最近。 エミリーも静かだった。 ゲームをしている時間は以前と変わらない。 紅茶も飲む。 でも。 時々、画面を見つめたまま動かなくなる。 「ねえ、エミリー」 「何?」 「ここから出られると思う?」 少しだけ。 エミリーの指が止まった。 「……わからないわ」 それだけだった。 その日の午後。 館内放送が鳴った。 『被験者07、研究区画へ移送します』 私は足を止めた。 07。 規制対象。 今まで。 名前すら知らなかった番号。 廊下の向こうから、一人の少女が歩いてくる。 研究員に挟まれている。 「待って」 少女が言った。 「私は、何もしてない」 研究員は笑っている。 「ええ。知っていますよ」 「じゃあ、なんで?」 「必要な処置です」 また。 その言葉。 必要。 私は胸が苦しくなった。 少女がこちらを見る。 目が合った。 助けて。 そう言われた気がした。 でも。 私は動けなかった。 足が。 動かなかった。 少女は研究区画へ消えていった。 扉が閉まる。 カチャン。 それだけ。 なのに。 その音が。 ずっと耳に残った。 翌朝。 少女の姿はなかった。 食堂にも。 廊下にも。 図書室にも。 どこにも。 「昨日の子は?」 私は研究員に聞いた。 「どの子でしょう?」 「07番の……」 研究員は首を傾げる。 「そのような被験者は記録されていません」 「……え?」 私はカード管理室へ走った。 07。 そこには。 空白があった。 番号だけが。 消えていた。 名前も。 写真も。 記録も。 最初から存在しなかったみたいに。 「そんな……」 背後から声がした。 「音織さん」 ルフェアだった。 いつもの白いコート。 いつもの笑顔。 「探し物ですか?」 「……07番の子」 「誰でしょう?」 「いたよ」 私は言った。 「昨日、いた」 「そうですか」 「いたんだよ!」 声が震えた。 ルフェアは怒らない。 ただ。 優しく私を見る。 「怖い夢を見たのかもしれませんね」 「夢じゃない!」 「大丈夫ですよ」 また。 大丈夫。 「あなたは何も心配しなくていいのです」 甘い声。 柔らかい声。 その声を聞くほど。 胸の奥が冷たくなった。 その夜。 研究区画の近くを通った。 扉の向こうから。 機械音が聞こえる。 誰かの声。 「……記憶保持率、低下」 「意識反応は?」 「安定しています」 「なら、次の段階へ」 私はその場を離れた。 聞きたくなかった。 でも。 耳を塞いでも。 声は頭の中に残った。 そして翌日。 食堂には。 新しい料理が並んでいた。 いつもと同じ朝食。 いつもと同じ味。 いつもと同じ食器。 ただ。 昨日までいたはずの人が。 一人。 いなかった。
第六章 残されたもの 数日後。 また。 一人が消えた。 今度はアルベルトとよく話していた人だった。 名前を覚えていた。 だから。 余計に怖かった。 「昨日までいたよね?」 アルベルトに聞く。 「……いたと思う」 「思う?」 「うん」 アルベルトは困ったように笑った。 「最近、記憶が変なんだ」 その言葉に。 私は何も返せなかった。 その日の午後。 研究員がアルベルトを呼んだ。 「アルベルトさん。検査のお時間です」 「また?」 「すぐ終わりますよ」 「……そう」 アルベルトは立ち上がった。 私は袖を掴む。 「行かないで」 アルベルトが振り返る。 「大丈夫だよ」 その笑顔。 どこか。 結城の最後の笑顔に似ていた。 「すぐ戻るから」 「……うん」 扉が閉まる。 私はその場に立っていた。 嫌な予感がした。 数時間後。 アルベルトは戻ってきた。 「ただいま」 「おかえり!」 私は駆け寄った。 でも。 アルベルトは。 少しだけ不思議そうな顔をした。 「……誰だっけ?」 「え?」 「ごめん」 アルベルトは笑う。 「君のこと、知ってる気がするんだけど」 「私だよ」 「音織……?」 「そう」 「そっか」 アルベルトは嬉しそうに笑った。 でも。 その笑顔の奥には。 何もなかった。 大切な人の名前。 一緒に過ごした時間。 好きだったもの。 嫌だったもの。 全部。 少しずつ。 削られていた。 そして。 私だけじゃなかった。 エミリーも。 時雨も。 ひおりも。 アルベルトに名前を呼ばれるたび。 少しずつ違和感を覚えていた。 夜。 私は廊下を歩いた。 研究区画の前。 扉の横に。 一枚の紙が落ちていた。 拾う。 そこには。 『残存被験者数』 という文字。 その下に。 数字が並んでいる。 一つ。 また一つ。 消されている。 まるで。 人間が。 人数としてしか扱われていないみたいだった。 「……間引き」 その言葉が。 頭に浮かんだ。 「音織さん」 背後。 ルフェア。 私は振り返らなかった。 「怖いですか?」 「……怖い」 初めて。 正直に言った。 「そうですか」 ルフェアは私の隣に立つ。 「でも、大丈夫ですよ」 「……なんで?」 「あなたは、とても大切ですから」 私は振り返った。 「私が?」 「ええ」 ルフェアは笑っている。 「ひおりさんも」 「……ひおりちゃんも?」 「もちろん」 その瞬間。 背筋が冷たくなった。 私たちは。 守られているんじゃない。 選ばれている。 そんな気がした。 その頃。 ひおりはまた。 ルフェアの部屋にいた。 「怖いですか?」 ルフェアが尋ねる。 ひおりは紙に書いた。 『少し』 「ここにいれば大丈夫ですよ」 『……うん』 「あなたを傷つける人は、私が許しません」 ひおりは顔を上げる。 ルフェアを見る。 その瞳は。 怖いほど優しかった。 「だから」 ルフェアが微笑む。 「私を信じてください」 ひおりは。 ゆっくり頷いた。 深夜。 研究区画。 研究員たちが記録を確認していた。 「残存個体の精神的抵抗が低下しています」 「結城の件以降、全体の不安定化も確認されています」 「アルベルトの記憶処理は?」 「順調です」 「ひおりは?」 「非常に良好です」 「音織は?」 「警戒心が上昇しています。ただし、ルフェアへの依存傾向はまだ形成されていません」 少しの沈黙。 「なら、次の段階へ」 「了解しました」 研究員が画面を閉じる。 その画面には。 私たちの名前が並んでいた。 そして。 その横には。 新しい項目があった。 『選別対象』 私は。 まだ知らない。 次に。 誰の名前へ。 印が付くのかを。