あの誕生日から、数週間が経った。 「コロン、朝だよ」 「……んぅ……」 『コロン、起きて』 「……あと五分……」 『今日は魔導書読まないの?』 「…………」 ガバッ!! 「起きる!!」 『やっぱり』 私の肩の上で、コノアがくすくす笑う。 「おはよう、コノア!」 『おはよう、コロン』 「今日も魔導書読むぞー!」 『朝から元気だね』 「だって面白いんだもん!」 『僕にはよく分からないけどね』 「コノアだって魔法使えるでしょ?」 『僕は神獣だからね』 「またそれ?」 『便利な言葉なんだよ』 「はいはい」 私は笑いながら机へ向かった。 そして――。 「…………」 手を伸ばす。 いつもなら、そこには一冊の黒い魔導書が置いてある。 4歳の誕生日にもらった、大切な魔導書。 毎日読んで。 毎日研究して。 魔法を覚えて。 新しい魔法を作って。 今では、私にとってなくてはならないものだった。 でも。 「……あれ?」 ない。 「……?」 机の上を確認する。 ない。 「……あれれ?」 机の下を見る。 ない。 「……」 ベッドの下。 ない。 本棚。 ない。 クローゼット。 ない。 「……ない」 『コロン?』 「魔導書がない」 『……え?』 「魔導書がない!!」 『ちょっと待って、落ち着いて!』 「魔導書がないよぉぉぉ!!」 『朝から叫ばないで!?』 「だってないんだもん!」 『僕にも探させて!』 「お願い!」 私は部屋中を探し始めた。 ◆ 「パパン!!」 「どうしたんだい、コロン?」 「魔導書知らない!?」 「魔導書?」 「うん!」 「僕は昨日から触っていないよ」 「お兄ちゃんは!?」 「私も知らない」 ノエルも首を横に振る。 「……」 私は固まった。 「……誰も知らない?」 「うん」 「……」 「コロン?」 「…………」 「どうした?」 「魔導書……家出したのかな」 「本が家出するの!?」 ノエルが珍しく大きな声を出した。 「だって……」 「いや、確かに自分で歩いていくことはできないと思うよ?」 『でも魔導書だよ?』 コノアが真剣な顔で言う。 『もしかしたら魔法で歩けるかもしれない』 「コノア!?」 『だって僕も歩けるし』 「本と神獣を一緒にしないで!」 『えー』 パパンが苦笑する。 「とりあえず、みんなで探そうか」 「うん!」 「私も探すよ」 『僕も!』 「コノアは何するの?」 『僕は指揮官』 「何もしないってこと?」 『違うよ。偉い人は自分で動かないんだよ』 「誰に教わったの!?」 ◆ 屋敷中を探した。 書庫。 「ない!」 研究室。 「ない!」 執務室。 「ない!」 倉庫。 「ない!」 客間。 「ない!」 そして――。 「お父様の寝室……」 「コロン」 ノエルが肩を掴む。 「そこは探さなくていいと思う」 「なんで?」 「パパンが魔導書を隠している可能性を考えているなら、たぶんない」 「……そっか」 「それに――」 ノエルが少し遠い目をする。 「もし私の部屋の物がなくなったら、私も同じくらい探すと思う」 「お兄ちゃんも?」 「うん」 『さすがシスコン』 「コノア」 『はい』 「今なんて言った?」 『何も言ってません』 「絶対言ったよね?」 『空耳じゃない?』 「……」 ◆ 結局。 どこを探しても魔導書は見つからなかった。 「……」 私は自分の部屋に戻る。 机の上には何もない。 「……ない」 いつもそこにあったもの。 毎日触っていたもの。 私を「選んでくれた」魔導書。 「……」 『コロン』 「なに?」 『大丈夫だよ』 「……うん」 『きっとどこかにあるよ』 「……そうかな」 『うん』 私はベッドに座った。 「……私」 『うん』 「魔導書に嫌われちゃったのかな」 『え?』 「だって……」 私は俯く。 「私が使えたのも、たまたまだったのかもしれない」 「本当は、私なんかが持つものじゃなかったのかも」 『そんなことないよ!』 「……」 『あの魔導書は、ちゃんとコロンを選んだんだよ』 「……」 『僕は見てたから』 「……ありがとう」 『だから泣かないで』 「泣いてないよ」 『目、赤いよ』 「……」 『鼻も赤い』 「コノア」 『はい』 「ちょっと黙って」 『はい……』 ◆ それから数日。 私は部屋から出ることが少なくなった。 「コロン、朝ご飯だよ」 「いらない……」 「ケーキもあるよ」 「……」 「ナツメ特製の苺ケーキ」 「…………」 『コロン』 「……食べる」 『やっぱりケーキには勝てないね』 「うるさい」 私は少しだけ部屋を出た。 ……でも。 魔導書がないことを思い出すと、すぐに部屋へ戻ってしまう。 魔法の研究も。 新しい魔法を作ることも。 何もする気になれない。 それを見ていたノエルは。 「……」 かなり心配していた。 「私、コロンがこんなに落ち込んでいるのを見るのは初めてです」 「僕もだよ」 アレンも悲しそうに笑う。 「僕がもっと気をつけていれば……」 「お父様のせいではありません」 「でも――」 「パパンのせいじゃないよ」 扉の向こうから声がする。 「……コロン?」 「聞こえてた」 私は扉を少し開けた。 「パパンは悪くないよ」 「コロン……」 「でも……」 私は俯く。 「やっぱり、魔導書に会いたい」 「……うん」 パパンは優しく笑った。 「必ず探そう」 「……ありがとう」 『僕も探すよ』 「コノアも?」 『もちろん』 「でも……」 『何?』 「コノアって探すの下手じゃない?」 『失礼だな!』 「この前、自分のケーキを探して三時間迷子になってたじゃん」 『あれは……』 「何?」 『ケーキが逃げた』 「逃げてないよ」 『逃げたんだよ』 「お皿に乗ってたよ」 『…………』 「コノア?」 『……僕、もう寝る』 「逃げた!」 ◆ その日の夜。 コノアが突然顔を上げた。 『……』 「コノア?」 『静かに』 「?」 耳がピンと立っている。 『……何かいる』 「何か?」 『外』 窓の外を見る。 月明かりに照らされた庭。 「……何もいないよ?」 『いや』 コノアの表情が変わる。 『いる』 ――ガサッ。 「!」 森の方で木々が揺れた。 白い影。 一瞬だけ。 巨大な獣の姿が見えた。 『……』 「コノア?」 『……神獣』 「え?」 『たぶん、僕と同じ』 「神獣……?」 『でも、こんな気配……』 コノアが警戒する。 『僕、知らない』 「コノアでも知らない神獣?」 『うん』 そして。 白い影は消えた。 ◆
翌朝。 「パパン!」 「どうしたの?」 「庭に大きな足跡がある!」 「足跡?」 アレンとノエルが庭へ出る。 「……これは」 「大きいですね」 地面には巨大な獣の足跡。 そして木には、鋭い爪痕。 「魔獣でしょうか?」 「いや……」 アレンが首を横に振る。 「この魔力は……」 『神獣だよ』 コノアが呟く。 「……!」 『間違いない』 コノアは森を見る。 『まだ近くにいる』 「……」 私は森を見る。 「……行ってみようかな」 「駄目だよ、コロン」 パパンが即答した。 「えー……」 「危ないからね」 「でも――」 「駄目」 「……」 『パパン、即答だったね』 「当然だよ」 『親バカ発動』 「僕は娘が心配なだけだよ?」 『それを親バカって言うんじゃない?』 「コノア」 『はい』 ◆ その夜。 私は眠れなかった。 「……」 魔導書。 どこに行ったんだろう。 「……会いたいな」 窓の外を見る。 すると。 ――ガサッ。 「……?」 森から音がした。 『コロン』 「うん」 『行く?』 「……うん」 私はそっと部屋を出た。 庭へ。 そして森の近くまで歩いていく。 すると。 「……!」 そこにいた。 白い獣。 巨大な身体。 純白の毛並み。 鋭い爪。 そして――。 金色の瞳。 「……虎?」 『……来たか』 「!」 声が頭の中に響いた。 「しゃべった……!」 『神獣なら当然だ』 「コノアと同じだ……!」 『僕と一緒にしないでほしいな』 「コノア、今それ言う?」 『だって僕の方が可愛いし』 「自分で言う?」 白虎がじっとコノアを見る。 『……』 『……』 「?」 『……騒がしいな』 『君、今僕のこと騒がしいって言った?』 『言った』 『失礼だな!』 「二人とも初対面で喧嘩しないで!」 『僕は喧嘩してないよ!』 『僕もだ』 「してるよ!」 ◆ 私は改めて白虎を見る。 「あなた……怪我してる」 『この程度、大したことはない』 「でも治す」 『必要ない』 「治す」 『……』 「治す!」 『……好きにしろ』 「最初からそう言ってよ」 私は手をかざす。 「《ヒール》」 淡い光が白虎の傷を包む。 傷がゆっくりと消えていく。 『……』 「どう?」 『……不思議な魔法だ』 「普通のヒールだよ?」 『いや』 白虎が私を見る。 『魔力の流し方が特殊だ』 「分かるの?」 『当然だ』 「どうして?」 『魔法については、それなりに詳しい』 「へぇ……」 私は少し興味を持った。 「じゃあ、この魔法は?」 私は簡単な魔法式を空中に浮かべる。 『それなら――』 白虎が即答する。 『そこを一つ変えると魔力の消費が抑えられる』 「え?」 『そして、その後にここへ魔力を流せば――』 「……!」 私は目を輝かせる。 「すごい!」 『……?』 「魔導書に書いてあった理論と同じ!」 『……』 白虎が一瞬黙る。 「ハクガ?」 『……そうか』 「?」 『その魔導書には、そう書いてあったのか』 「うん!」 『……』 ハクガは少しだけ目を逸らした。 ◆ 「そういえば!」 私は思い出した。 「あなたの名前は?」 『……ハクガ』 「ハクガ?」 『そうだ』 「よろしくね、ハクガ!」 『ああ』 私は笑う。 「私、コロン!」 『知っている』 「なんで!?」 『……』 「初対面だよね!?」 『……神獣だからだ』 「またそれ!?」 コノアが吹き出す。 『あはは! コロン、僕と同じこと言われてる!』 「コノアは笑わないで!」 『だって面白いんだもん!』 「もう!」 ◆ 私はハクガの毛並みにそっと触れる。 「ふわふわ……」 『……』 「気持ちいい」 『そうか』 「ハクガも可愛いね」 『……可愛い?』 「うん」 『僕は虎だぞ』 「でも可愛い」 『……』 ハクガが困ったような顔をする。 『……好きにしろ』 『ねえコロン』 「何?」 『僕も撫でて』 「コノアも?」 『僕の方が可愛いって証明する』 「張り合ってる……」 『ほら!』 「はいはい」 私は片手でコノアを撫で、もう片方の手でハクガを撫でる。 「二人とも可愛いよ」 『……』 『……』 神獣二匹が同時に黙った。 「?」 『……まあ、悪くない』 『……うん』 「ふふっ」 ◆ しばらくして。 私はハクガに聞いた。 「ねえ」 『何だ』 「私の魔導書がなくなったこと、何か知らない?」 『……』 ハクガが黙る。 「ハクガ?」 『……消えたわけではない』 「え?」 『あの本は――』 ハクガが言葉を止める。 「……?」 『いや』 「何?」 『今はまだ知らなくていい』 「なんで?」 『いずれ分かる』 「教えてよ!」 『駄目だ』 「ケチ!」 『何とでも言え』 「むぅ……」 私は頬を膨らませる。 『だが』 「?」 『お前が前に進めば、必ず答えに辿り着く』 「……」 『その時まで、僕が導いてやる』 「……!」 その言葉を聞いた瞬間。 胸の奥が、ほんの少し温かくなった。 魔導書を読んでいた時と同じ感覚。 「……ハクガ」 『何だ?』 「なんか……」 「ずっと前から知ってるような気がする」 『……』 ハクガが一瞬だけ固まった。 『……そうか』 「うん」 『いつか、その答えも分かる』 「変なの」 『そうだな』 ハクガは小さく笑った。 ◆ 屋敷に戻ると。 「コロン!」 パパンが飛んできた。 「どこに行っていたんだい!?」 「ご、ごめんなさい!」 「心配したんだよ!」 パパンが私をぎゅっと抱きしめる。 「無事でよかった……!」 「パパン、苦しい……」 「ごめん!」 すぐに離す。 「何があったの?」 「えっと……」 私はハクガを見る。 ハクガは少し離れたところに立っている。 「神獣に会ったの」 「……!」 アレンとノエルが驚く。 「神獣?」 「うん!」 「どこに?」 「ここ!」 私はハクガを指差す。 「白虎のハクガ!」 『……よろしく』 「…………」 パパンが固まった。 「……僕には」 「?」 「……白い塊にしか見えない」 「え?」 ノエルも目を細める。 「私にも、ぼんやりとしか……」 『ふふん』 コノアが得意げになる。 『やっぱり僕たちは特別なんだよ』 『……』 ハクガがコノアを見る。 『何だ』 『別に』 『……』 「二人ともまた喧嘩しないでね?」 『してない!』 『していない』 「息ぴったりじゃん……」 ◆ その夜。 コロンが眠ったあと。 ハクガは庭に立っていた。 『……』 自分の前足を見る。 そこには。 一瞬だけ淡い光が灯る。 浮かび上がった紋章。 それは――。 コロンが4歳の誕生日にもらった魔導書。 その表紙に刻まれていたものと。 全く同じだった。 『……まだ、思い出さなくていい』 ハクガは小さく呟く。 『今はただ――』 窓の向こう。 眠っているコロンを見る。 『君のそばにいよう』 その瞬間。 ハクガの身体が淡く光った。 そして。 一瞬だけ。 白虎の姿が揺らぐ。 その奥に見えたのは――。 一冊の黒い魔導書。 だが。 それは一瞬のことだった。 『……』 ハクガは何事もなかったように目を閉じる。 ――まだ誰も知らない。 コロンが失った魔導書の行方を。 そして。 その魔導書が。 今もコロンのすぐそばにいることを。