- | - 第一章 普墺戦争 - | - - 第一節 ドイツ民族最後の内紛 - 1866年、シュレースヴィヒ=ホルシュタインの権利を巡ってプロイセンとオーストリアが衝突、これを機にドイツ統一の主導権を巡った戦争が始まることになる。 プロイセン王国はシュレースヴィヒ=ホルシュタインでのオーストリアが支配権を持つ地域に軍隊を侵入させ、同時に宣戦布告した。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、いわゆる普墺戦争が始まった。 予告もなくオーストリア支配圏に侵入したプロイセン王国に対してドイツ連邦諸邦はプロイセン王国を「侵略国家」とし、バイエルン王国、ハノーファー王国、ザクセン王国などの有力な国家から自由ハンザ都市ブレーメン、ヘッセン選帝侯領など小さな国家までもがオーストリア側についた。 これに焦ったプロイセン王国はイタリア王国と接触、戦後のヴェネトとトレンティーノ地域の割譲を約束することで6月17日にイタリア王国がオーストリアに宣戦布告。 現在プロイセン王国率いる「プロイセン陣営」はプロイセン王国とイタリア王国とその他少数の諸邦のみ、それと比べてオーストリア帝国率いる「ドイツ連邦陣営」は其の他大多数の諸邦となっており、プロイセン陣営は兵力で大きく劣っていた。また、それにもかかわらずプロイセン陣営はかなり離れていたため、連携がうまくとれていなかった。 そのため、国際メディアは総じて「オーストリアの勝利は確実だろう」と報じていた。 - 第二節 初陣 - 兵力差を悟ったプロイセン王国は先ず戦線を減らそうとオーストリアの飛び地たるホルシュタインを支配せんとし、そのためにメクレンブルクへの攻撃を開始した。 この好きを突くためにボヘミアに兵力を集中させていたオーストリアであったが、プロイセン王国は予想以上にインフラが発達しており、わずか2日で同地を占領。その勢いのままにホルシュタインへ攻撃を始めたプロイセン王国。現地のオーストリア軍の抵抗はあったものの防ぎきれずに6月22日に同地が陥落。 やっと戦力の集中が行えたオーストリア軍は北上、上シレジアを切除して包囲する試みだ。のちに言われる「シュレージエンの戦い」である。 オーストリアを過小評価していたプロイセン王国は派兵が間に合わず、ブレスラウまでを占領された。 勢いに乗っているオーストリアはそのまま攻撃に出るものの、巧みな指揮の下プロイセン軍が根強く抵抗。その間にプロイセン王国は北西ドイツの占領を画策。 同地のオルデンブルグ大公国とハノーファー王国に服従の最後通牒を送付。 12時間経っても返答が見られなかったために攻撃を開始。しかし多くの戦線と飛び地を抱えたプロイセンでは力不足であり、またインフラも弱かったため迅速な占領は叶わなかった。 その間に物量に物を言わせたオーストリア軍が上シレジアを包囲、数十時間後占領した。 イタリア王国も攻勢に出てパドバなどを占領したものの、統一して直ぐであったため軍隊は軟弱。その上河川も多く、他のところには山脈もあったためこれ以上の行軍はかなわなかった。 - 第三節 ハプスブルクの栄光 - 各地域で思うように優勢になれない両陣営は講和を求めるようになっていった。 どちらかというと優位であったオーストリア帝国はフランス王国に仲介を求め、プロイセンと講和を行った。 オーストリア帝国はプロイセンにホルシュタインの支配圏を譲る代わりに賠償金1000万ターラー、そして上シレジアの割譲を求め、そして了承された。 6月29日、パリ講和条約によりこれが確定し、残るはイタリア王国のみとなった。 イタリア王国は優位であることで慢心し、オーストリア帝国の提案した白紙講和を突っぱねた。 オーストリア帝国は7月04日、パドバの奪還のために攻勢を行う。俗に言う墺夏季攻勢である。 慢心したイタリア軍は敗退し、後退を続けた。 勢いそのままにオーストリア軍はポー川を渡河してエミリア=ロマーニャ地域に進軍。 これに対してイタリア王国が降伏を宣言。 戦後、ロンバルド地域の割譲とハプスブルク家の分家を公爵としたトスカーナ大公国の建国と教皇領の保護を要求し、受諾した。 これによりドイツ統一はオーストリアが主導権を握り、それと同時にオーストリアはイタリアでの優越権を獲得したのであった。 - | - 第二章 統一に踏み出すオーストリア - | - - 第一節 南部平定 - 普墺戦争に勝利したオーストリア帝国は戦争による被害を鑑み、国力をつけてプロイセン王国のように強力な兵器を揃えるべきだとなり、そのためドイツ統一により一層興味を示した。 しかし、非ドイツ人地域では多くの反発がある中欧帝国構想は反対派が多く、しかし統一無しにてドイツ人の栄光はない。このジレンマに悩まされたオーストリア帝国だったが、フランツ・ヨーゼフの「ドナウ帝国分離構想」を基にドイツ民族圏からオーストリア帝国にかけて「ハプスブルク同盟」を設立し、同盟内に以下のように国家を設置するようにした。 ・ドイツ人地域と他一部地域(イタリア北部やイストリアなど、地中海周辺の領土とボヘミア・モラヴィア地域)による「ドイツ帝国(ドイツ人の帝国)」 ・大ハンガリー及びダルマティアによる「ドナウ帝国(ドナウ民族の帝国)」 ・ガリツィア地域の「ガリツィア・ロドメリア王国(ガリツィア人(実質的なポーランド人)とウクライーネ人の帝国)」 ・ブコヴィナの「ブコヴィナ大公国(ルーマニア人の大公国)」 のようにすることをドイツ連邦内で提案。 南ドイツ地域やハンガリー人、ガリツィア人(ポーランド人)は賛同し、南ドイツはオーストリアと統合。 ハンガリー人もオーストリア帝国の指導の下政府建設を開始、ガリツィアは後々政府を建てるらしい。 しかし、チェコ人やプロイセン王国は反対、他の諸邦はある程度賛成といったところに落ち着いた。 オーストリア帝国は一旦「連邦議会において代表される諸王国並びに諸邦(通称南ドイツ諸邦連合)」と「ドナウ自治君主国」と「オーストリア領ガリツィア」と「ブコヴィナ自治大公国」に分離。 これからオーストリアとバイエルン、そしてその他南部諸邦はドイツ統一に動き始めるのだ。 - 第二節 ボヘミア人の王国 - 更に時は流れ、1867年。 南ドイツ諸邦連合はザクセン王国やヘッセン選帝侯国、ヘッセン大公国も取り込み、ドイツ連邦随一の影響力を誇った。 これに対してプロイセン王国除く諸邦は「ドイツが統一されそうだなぁ」程度であり、オーストリア帝国によるドイツ統一に賛同するでもなくまた否定するでもない、中立に近い諸邦が多かった。 しかしプロイセン王国はこれに危機を感じた。 鉄血宰相ビスマルクは最終演説と呼ばれる...またはただ単に九月演説と呼ばれる演説を行った。 簡単に書き記すとこうだ。 ・このまま南ドイツ諸邦連合が広がればプロイセン王国は栄光を失うということ ・そのために我が国もドイツ統一に踏み出すべきということ ・プロイセン臣民は尽力を尽くしてドイツを統一すべきであるということ ...しかし、正直なところビスマルクもヴィルヘルムもプロイセン臣民も、プロイセンがドイツの統一をすることができないと分かっており、積極的に統一を行おうとする者は殆どが夢を抱く若者か酔狂なプロイセン主義者のみであった。 そのため、プロイセン王国政府は密かに大ドイツ主義...つまり南ドイツ諸邦連合との自治ありきの統合を模索し始めていた。 そして数日後。最終演説から特に表立った動きがある訳でもなく、しかし警戒はすべきと考えたオーストリア帝国はボヘミア地域への駐屯を増やした。 しかし、未だ南ドイツ諸邦連合からの脱退...というよりオーストリア帝国からの独立を望むチェコ人たちは反発し、駐屯軍へ妨害を行った。 これに困ったオーストリア帝国は南ドイツ諸邦連合内にて会議を開始、1867年ウィーン会議である。 その結果、チェコ人はズデーテンラントを除くチェコ人居住地(ボヘミア、モラヴィア、スレスコ)において「ボヘミア人・モラヴィア人王国」として南ドイツ諸邦連合に加盟することとなった。後の「チェスカー王国」である。 これに合わせてドナウ自治君主国とオーストリア領ガリツィア、ブコヴィナ自治大公国は国名の変更をオーストリア帝国に求め、それぞれ「オーストリア保護領ドナウ帝国」「オーストリア保護領ガリツィア・ロドメリア王国」「ブコヴィナ大公国」へと変貌を遂げ、特にガリツィア・ロドメリアでは諸民族が歓喜の声をあげた。 ...唯だ、ドナウ帝国は一番人口が多いマジャル人が幅を利かせ、他の民族(南北スラヴ人、ルーマニア人など)の抑圧が増していった。 - 第三節 ドナウの大改革 - ドナウ帝国内の民族問題によるドナウ帝国の更なる分解を予想したオーストリア帝国は一旦ドイツ統一を後に回し、ドナウ大改革を開始した。 先ず、ドナウ帝国の中にも自治政府を設置することにした。マジャル人の反発はあったものの、強硬的に押し通した。 置かれた政府は以下の通り。 ・上ハンガリー自治政府(マジャル人居住区を除くスロヴァキアとカルパティア) ・南スラヴ自治政府(イストリア除くクロアチア人居住区とヴォイヴォディナ南西部) ・エルデーイ自治政府(狭義の上のトランシルヴァニア) これを基に15の州が設置された。 ・ウンガルン・ドナウ国 ↳西ドナウ州 ↳中ドナウ州 ↳東ドナウ州 ↳ティサ・ドラーヴァ州 ↳トランスドナウ州 ・ブダペシュト独立州 ↳ブダペシュト州 ・オーバーウンガルン・ドナウ国 ↳ブラチスラヴァ州 ↳東スロヴァキア州 ↳カルパト・ウクライネ州 ・ズュースラヴ・ドナウ国 ↳スラヴォニア州 ↳中央スラヴ州 ↳ダルマティア州 ・トランシルヴァニア・ドナウ国 ↳外トランシルヴァニア州 ↳内トランシルヴァニア州 これに伴い、ドナウ帝国の国名はドナウ連邦帝国へと変更された。 不満に思ったものの、力をそがれたマジャル人は一旦は静かにすることにした。 背後の問題を解決したオーストリア帝国率いる南ドイツ諸邦連合はドイツ統一事業に戻り、議論を続けた。 その結果、プロイセン王国を懐柔し、そして連合に取り込み、ドイツ世界で圧倒的な国力を手にするという案が可決された。 そして9月02日、南ドイツ諸邦連合はプロイセン王国首都ベルリンに使者を送り、議論を行った。 前々から加盟を模索していたプロイセン王国はこれを好機と捉え、自治を認めさせる代わりに加盟する提案を行った。 しかし、ドイツ世界有数の国土の広さを持つプロイセン王国がそのまま加盟するとなると連合内の力関係がとても狂うため、ドイツ人国家の形成後に州区分の大改編を行うことを条件に加盟を了承した。 これによりドイツ世界一番の国力を得た南ドイツ諸邦連合は他の諸邦を吸収していく。 方法はまちまちで、諸邦からの提案、諸邦への交渉、戦争による占領などだ。 そして...1868年になった。
- | - 第三章 そして伝説へ - | - - 第一節 統一されるドイツ世界 - 残る諸邦はルクセンブルク大公国のみとなった。 諸邦の全てが南ドイツ諸邦連合改め新ドイツ連合に加盟したが故に形骸化したドイツ連邦が健在であった頃に脱退したルクセンブルク大公国をドイツ世界に含まれるとして、新ドイツ連合に加入させるべきかは意見が分かれたものの、最終的には加盟させる方向で決まった。 しかしルクセンブルク大公国はオランダ王国と同君連合にあり、そして何度かの交渉でもオランダは割譲する気はないように見られた。 そのため新ドイツ連合は戦争を決意した。かくして、後世にてルクセンブルク戦争、独蘭戦争、墺蘭戦争、五日間戦争など、多岐にわたる戦争名がつくこととなった「ドイツ統一戦争」が始まった。 1868年3月09日未明、オランダ王国へ最後通牒を送付した。内容は「ルクセンブルクの割譲」のみであった。 10時間後、拒否通告、そして正午ピッタリに宣戦布告。 ルクセンブルク国境は数千の部隊で防御のみとし、オランダ王国本土へと攻撃を開始する新ドイツ連合。独主力軍2万はライン川沿いに進軍し、1時間でナイメーヘンに到着、守備隊と戦闘し、2時間ほどで占領した。 そして新ドイツ連合軍はそのままに進軍、数時間でアルンヘムの片岸を占領した。 今度はそこから南下していき、エイントホーフェンまで進軍、そして現地の守備隊を打破してそのまま占領、そしてベルギー国境まで進軍、包囲した地域もほどなく占領した。 全て09日での出来事であった。 何故このように迅速な進軍が出来ていたのか。それは、プロイセン王国を参考としたインフラ整備や軍隊の近代化を行っていたため、直ぐに軍隊を動員し、そして進軍し、その上で現地のオランダ軍を打破することができたからである。 また、騎兵を中心とした先遣隊が敵軍の脆弱な場所を偵察、そして後続部隊に連絡し、脆弱部を砲兵と騎兵が総攻撃、敵軍の穴を広げたところに歩兵を進軍させるという新戦法による進軍が強力であったため、という理由もあった。 この戦法はのちに「電撃戦」と呼ばれることとなり、新ドイツ連合はもちろん、大きな被害と衝撃を直接受けたオランダ王国、急進的に成長と統合をするドイツ世界を警戒したイギリス王国やロシア帝国、フランス王国フランス共和国、少し遅れたもののドイツを参考に国家形成を行った大日本帝国など、多くの国家が参考することになり、新ドイツ連合軍に継承されたプロイセン軍の精神はまたもや世界的に注目を集めることとなった。 その後、好機と見た新ドイツ連合軍は防衛にあたっていたルクセンブルク戦線の六千の兵にてルクセンブルク占領を試みた。 ルクセンブルク守備隊は本国の戦況を知っていたために厭戦気分が漂っており、ただの歩兵であったにもかかわらず進軍を許してしまい、南部からゆっくりと占領された。 首都ルクセンブルクが占領された時点でルクセンブルク守備隊は降伏し、その後数時間でルクセンブルク全土が占領されたのであった。 その後の四日間、新ドイツ連合軍とオランダ軍は交戦することなく、そして3月14日午後4時にオランダ王国が降伏、ルクセンブルクの割譲と少量の賠償金を支払った。 - 第二節 A.E.I.O.U. - ルクセンブルクに勝利した新ドイツ連合。遂にドイツが統一されたのだ。 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは二回目の戴冠を行うことになった。オーストリア帝国と代わらない帝冠を、今度はドイツ皇帝として。 そして1868年3月20日。シェーンブルン宮殿にて戴冠式が行われた。 ...そして、伝説がはじまった! この時、新ドイツ連合は大ドイツ帝国へと国名を変え、その名を世界に馳せたのであった。 ...しかし、そうずっとうかれているわけにもいかないのだ。 先ず、大ドイツ帝国の構成国の領土を設定されることとなった ☆オーストリア帝国州 - ウィーン ・ブランデンブルク=プロイセン王国州 - ベルリン ・ザクセン王国州 - ドレスデン ・バイエルン王国州 - ミュンヘン ・ヴュルテンベルク王国州 - シュトゥットガルト ・バーデン大公国州 - カールスルーエ ・トゥーリンゲン大公国州 - エアフルト ・シュレスヴィヒ=ホルシュタイン公国州 - キール ・オルデンブルグ公国州 - オルデンブルグ ・ラインラント地域州 - ケルン ・ニーダーラインラント地域州 - ハノーファー ・ハンブルク自由州 - ハンブルク自由都市 ・ブレーメン自由州 - ブレーメン自由都市