- 第一章 日中戦争 - 1936年末月、南京政府は「最早日中戦争は避けられない」とし、青島と威海衛の租借を条件にドイツ国と南京政府が陣営を設立。陣営名は「ベルリン=南京枢軸」俗に枢軸陣営と呼ばれる。 1938年初月、大日本帝国はドイツの驚異により遅滞していた対中作戦を軍部の圧力もあり半ば強引にようやく実行した。 対支一撃論のもと破竹の勢いで攻勢を進め、華北一帯を占領。中華軍は山東半島や汾河以西などに取り残されていた。 大日本帝国は占領地に政府を設置。冀東防共自治政府を基に「中華民国暫定政府」を設置。のちの「中華民国国民政府」にあたる。 その後、どんどん押していく大日本帝国。長江防衛戦線を突破された南京政府は首都を重慶に移転、徹底抗戦する。 イギリスやフランスなどの欧州各国はドイツに融和的であり、重慶政府に支援を行っていた。 そのまま戦線は膠着し、日本軍は主要な沿岸部を占領したものの雲南や重慶までには届かず、時が過ぎていった。 そして1939年9月、ドイツはポーランド侵攻を行い、それに対して英仏が宣戦布告、第二次世界大戦が開戦したのだ。 それに伴い英仏の対中支援は打ち止めとなり、日本軍は今度こそはと大攻勢。俗に「滅号作戦」と呼ばれることになる戦闘が始まった。日本軍はそのまま大きく前進し、南部の資源地帯や雲南軍閥を占領し、重慶まであと一歩となった。 そのころ───1940年5月にはドイツがベネルクス及びフランスへ電撃的に攻撃。一か月後にはイタリアも参戦し、それの意味があったのかは定かではないがすぐさまフランスが降伏。 フランス植民地は多くがヴィシー政府に受け継がれ、自由フランスの影響圏北アフリカと太平洋諸島に残された。 同年7月、イギリスはなんとかドイツを止めるために日本との関係改善を模索。上海にて対話を行った。その結果は俗に言う「上海宣言」であり、内容としては国民政府、維新政府、そして満洲国を承認、東トルキスタンでの日本利権の確約や南中華での「日本保護領広東国」の建国も承諾、更には中華戦線の早期決着のためにイギリス領マラヤの資源の日本軍による使用を許可。 その代わりに欧州大陸での戦争の加勢を約束、といったところだ。 これを「第二次日英同盟」と呼ぶ。 アメリカ合衆国はイギリスの行動を非難し、対英禁輸を決行。しかしイギリスは屈さず、重慶政府の降伏までなんとかドーバーを守り切った。 そして1941年初月、日本軍はイギリスによる(微弱ではあるが)支援もあり、重慶を占領。それに伴って重慶政府は降伏した。蔣介石などは密かに船舶によりドイツへの逃亡を試みたものの日本軍に発見され、撃沈された。 - 第二章 日が昇る欧州 - 1941年3月、日本軍はインド洋ー紅海ー地中海と、英植民地にて補給を行いつつ艦隊を移動させるが、地中海中部にてイタリア海軍と衝突。地中海海戦が勃発した。 慣れない環境と地理的不利から多大な被害を被ったものの日本軍は制海権を確保。そのままマルタ島周辺の制海権も奪還し、日本軍が勝利。 このタイミングにて大日本帝国及び満洲国、蒙古連合自治政府、中華民国国民政府、中華民国維新政府、南支軍府(後の日本保護領広東国)、トルキスタン国が連合国に加盟。 また、マルタ島を拠点に北アフリカ戦線に海上支援を行った。 その後、同年6月にシチリア攻略のための「イ号作戦」を決行。日英仏の連合軍総勢18万人にてカターニアへ上陸、そのまま北上してメッシーナを占領。海軍も派遣して補給を完全に断ち、翌年8月までに総勢40万人にてシチリア島全域を占領。 北アフリカでの完全なる劣勢及びシチリアの陥落に伴い、ドイツとイタリアはヴィシーフランスを分割して占領。 1943年初月、半島南部の占領のためにティレニア海へ日本軍を派遣し、同地にてイタリア海軍を補足、ティレニア海海戦が勃発し、戦艦3隻、空母1隻、巡洋艦9隻を失うものの敵海軍を壊滅させ、翌月にはターラントに上陸、「チ号作戦」である。 勢いそのままにナポリまで進軍し、同地を占領。 しかし、同時期にてイギリスがドーバー海峡にて大敗を喫した。戦艦4隻、空母2隻、巡洋艦10隻、駆逐艦18隻を失い、制海権の殆どを喪失。さらにロンドンなど主要都市への空襲が激化。 イギリスの敗戦に伴う日本の敗退を恐れた日本軍は強引に進軍。結果、多大な被害をだしながらラツィオ州南部までを占領した。 その後、数か月ほど戦線は膠着し、イギリスも水際で上陸を防いでいた。 そして10月、日仏合同でイタリア攻略を決行。 航空支援の下進軍し、11月にはローマを占領。 これに伴い反ムッソリーニ派が連合国に直談判、連合国占領地域に「南の王国」という国家を建国した。 連合国軍はそのまま北上を続け、1944年6月にはポー川以南まで進軍。ムッソリーニ政権はミラノに政府を移して抗戦を続けた。 日仏は南の王国に戦線の維持を任せ、南仏の奪還のための作戦を立案。そのために先ずリヨン湾の制海権確保のために海軍を派遣し、同年8月には同地域でのある程度の制海権を確保。これに伴って空母1隻、巡洋艦6隻、駆逐艦16隻を失った。戦艦の被害は微細であったが、だとしても戦果はかなり小さなものであった。それに比べて空母による対潜攻撃はドイツ潜水艦へ大きな打撃となった。 この事実は世界各国に大きな衝撃を与えた。 同年11月にはペルピニャンへ上陸、ピレネー山脈沿いに進軍を進め、同地を占領した。自由フランスの帰還だ。 その後日仏両軍は現地人民の支援の下進軍を進め、ボルドー、トゥールーズ、グルノーブルなどを一ヶ月ほどで占領。さらなる北上を続けたが、リヨンにてドイツ軍と接敵、リヨンの戦いが始まった。 その間、イタリア戦線では動きがなく、ポー川を挟んでにらみ合い、制空権確保にいそしんでいた。 すべての戦線がある程度膠着し、動かなくなってきているところで南の王国領シチリアのパレルモにて戦後構想を連合国の国家で話し合った。後の「パレルモ会談」である。なお、イギリスは制海権の喪失などを理由に英本土より脱出できず、そのため出席できなかった。 内容としては、イタリアを南の王国に任せ、ドイツ領シュレージエンは戦後発足する国際連合が直接統治し、ドイツとオーストリアは主要国たる日仏伊(南の王国)と可能であれば英の3,4か国で分割統治を行うとした。 また、ポーランドはソヴィエトに割譲された東部以外にて主権を保持し、その他のチェコスロヴァキア連邦共和国や低地地方三国などは戦前の領土を、ハンガリー、南スラヴ人王国、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャなどは戦前の領土を保持することになった。 方針も決まったこともあり、早々に戦争を終結させんとドイツ政府に同内容である「パレルモ宣言」を突き付けた。 しかし、やはりというべきか拒絶された。 そのまま戦争は続く。リヨンでの戦闘は長引き、両陣営が大きな被害を出していた。 - 第三章 赤く染め上げる津波 - 1945年5月のことだった。ソヴィエト連邦がドイツとの不可侵を破ってルーマニアやポーランドに侵攻。ある程度の準備はしていたもののソヴィエト連邦による開戦を予測していなかったドイツ軍は敗走を進め、一か月もなくケーニッヒスベルクやワルシャワの東方が陥落した。 ドイツ軍には最早防戦以外は許されておらず、東西戦線両方にて敗戦を続けた。 戦後の社会主義の蔓延を恐れた連合国は攻勢を強め、リヨンを突破。そのままディジョン、オルレアン、パリと占領地を広げ、自由フランスはついにパリへ帰還した。 そのまま進んだ連合国軍とは打って変わって動きが沈静化したソヴィエト連邦。ドイツ軍の想定以上の抵抗とヴィスワ川防衛線により進軍は遅れたが、この時期に防衛線を突破。ワルシャワ全域を占領した。 そして、1945年9月、遂にドイツ軍はフランスの全域を失った。それに伴いドーバー海峡でのドイツ海軍は撤退し、イギリスは制海権を確保した。 そのまま連合国軍は再度行動可能となったイギリス軍と合流して一か月ほどでベネルクスを開放。英仏空軍の支援の下、そのままライン川までを占領した。 ソヴィエト連邦は全力で進軍を続け、やっとクラーカウなどを占領。バルカン戦線でも進軍を進め、ルーマニア軍と少数のドイツ軍を打ち破りモルダヴィア地域広域を占領した。 その頃、イタリアでは南の王国がムッソリーニ政権を打倒。遂にポー川を渡って軟弱なムッソリーニ政権軍を倒し、ヴェネツィア、ベローナとどんどん占領を広げ、遂にミラノを占領。その後、ムッソリーニと関係者はクロアチア自由国に逃走しようとしたものの逮捕され、ローマに連れ出し皆の前で殺害。 その後、南の王国は疲弊していたがため、クロアチア自由国への攻撃はせず、国境の防衛に専念した。 連合国はライン川を渡河してハノーヴァーやブレーメン、キールなどを占領。そしてハンブルクまで占領した。 この時期、ソヴィエト連邦はポンメルンへの上陸による現在の前線の包囲を行う作戦を決行したものの、ドーバーから帰還したドイツ海軍が上陸を許さず、決死で阻止した。 海上ではある程度抵抗が出来ていたものの、陸上での敗走は決められたことのようであり、1945年12月、戦況はよくなることは全くなく、ドイツの敗北を悟ったヒトラーは青酸カリと拳銃によって自殺。 その後もゲーリングが二代目総統として指揮を続けたものの一部地域がゲーリングに反発した人物がバイエルン、ザクセンなどにて蜂起。オーストリアやチェコなども独立を宣言した。分裂し、戦力も溶けたドイツ国は連合国とコミンテルンに対抗することはかなわず、1945年のクリスマスの早朝にドイツ国は無条件降伏し、その他のドイツ内の軍閥は降伏ないし占領され、チェコやオーストリアなどは連合国が保護した。 かくして第三帝国は滅亡したのであった。 また、ドナウ川にて防衛していたブルガリアや国土の東北部が占領されたルーマニア、派兵で疲弊したハンガリー、ドイツの影響のあったクロアチア、スロヴァキアなども連合国とコミンテルンに降伏、ルーマニアと旧ポーランド第二共和国領はソヴィエト連邦が、そのほかは連合国が保護・占領した。 1939年から6年以上、日中戦争も含めると約8年も続いた第二次世界大戦はこうして終結した。 - 第四章 戦後も終わらぬ争い - 戦後、ベルリンにて行われた講和会議は2週間に及んで続いた。 先ず、これ以上の戦争を防ぐために連合国が国際連合へと変貌し、世界平和へ歩むとした。 西欧は国境に変わりはなかった。 イタリアは南チロルを除いて第一次世界大戦時代の国境に戻された。また、王政は弱体化し、憲法の力が強まった立憲君主制となった。そして、一旦は連合国がローマやミラノなどの主要都市を占領し、監視にあたるとした。 ドイツはオストプロイセンとシレジア以外は日英仏が分割統治を行った。この統治は1950年までを目途に民主化を目指している。 オーストリアやチェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアなどは統合され、ドナウ連邦として再編された。理由としては、またナチスのような侵略国家が発生した際に各個撃破されることを防ぎ、民主主義を守るためとされているが...実際は社会主義勢力に対抗するために過ぎない。 ...ソヴィエト連邦が侵略国家であることは火を見るより明らかであるため、表の理由であってもあながち間違いでもないが。 ボスニアもドナウ連邦に編入する予定であったものの、一気に多くの国家が消滅すると混乱が生じる事とドナウ連邦での南スラヴ民族の割合が増えすぎることから除外された。 残りのユーゴスラヴィア王国領では南スラヴ連合が、ソヴィエト連邦が占領したポーランドとオストプロイセンではポーランド第三共和国が、ルーマニアではルーマニア共和国連邦が、ブルガリアではブルガリア共和国が、ギリシャではギリシャ王国が、建てられた。 また、敗戦国にはそれぞれ賠償金がかけられ、軍備制限もかけられた。しかし、ドイツ以外の国家は連合国の指導の下独立を維持していた。 一か月ほどで新たな国境の混乱も収まり、世界は秩序を求めていた。
1946年初月、事件は起きた。 ルーマニア連邦共和国首都たるブカレストにて社会主義クーデターが発生。数十日間によって占領されたブカレストの奪還はかなわなかった。なぜなら、軍縮により縮小化した軍隊では力不足であり、ドイツの治安維持のためにも連合国はドイツから撤退は出来なかったからだ。その上、そもそも国際連合各国は疲弊しきっていたため、派兵はかなわなかった。 また、直ぐに止むと考えていたのも1つの要因だろう。 疲弊した市民がこれほどまでに耐久するとは考えていなかったようだ。 これが1946年1月3日から1月28日の「ブカレスト革命」である。 2月に入っても市民が降伏しなかったため、国際連合───主に日本軍───がドナウ連邦を経由して出兵。 鎮圧に向かったものの、これがまた市民を刺激し、反国際連合デモ、反日本軍デモが発生。モルダヴィアとワラキアを中心に「ルーマニア社会主義共和国」の建国を宣言。 「ルーマニア戦争」の始まりである。 ルーマニア共和国連邦は構成国がトランシルヴァニア共和国のみとなってしまったために国名を「トランシルヴァニア共和国」に変更。 ソヴィエト連邦がルーマニアへの支援を大々的に宣伝し、反対に国際連合はトランシルヴァニアへの支援を大々的に宣伝した。 アメリカ合衆国は国内世論が三つに分裂した。 「社会主義勢力が拡大するのはいけない」と言う積極的支援派 「民主主義は保護するべきではあるが...」と言う消極的支援派 「連合国への支援は日本の拡大に繋がる」と言う未関与派 この三つだ。 その為、アメリカ合衆国は秘密裏にイギリスとフランスのみに支援を行い、間接的にトランシルヴァニアを支援すると決めた。 その支援のもとカルパティア山脈沿いににらみ合いをしていた2国であったが、1946年3月、ついに国際連合軍が補給の阻害の為、モルダヴィア占領を行う作戦「バリアリーフ作戦」を決行。ボトシャニ方面に攻撃を行う。しかし、やはりというべきか、カルパティア山脈の越境は難しく、そして無謀であった。 そのため、大した戦果を出せずに部隊が損耗しただけであり、長期間戦争を遂行していたことも乗じて国際連合各国にて不干渉を求めるデモが発生。イギリス・フランスは撤退、日本は国境防衛のみ、イタリアは変わらず、となった。 ソヴィエト連邦も攻めあぐね、結局ほとんど動きはなかった。 そのまま山脈沿いでのにらみ合いが続き、そして遂に動いた。1948年3月のことだった。 ルーマニアが動いた。ソヴィエト連邦が目を付けたのは共産主義に傾きつつあった南スラヴ王国である。 王国政府内部に浸透し、軍事通行権を獲得。そして同国を通過してティミショアラへ進軍したのだ。 予期せぬ突然の戦闘に対応できず、連合軍は山脈沿いから部隊を転換させる、現地に新たに派兵するなどをおこなったもののあえなく敗退。そのまま後退を続け、その勢いのままトランシルヴァニア首都詩眉宇が陥落シビウが陥落。トランシルヴァニアは首都をクルジュ=ナポカに移転し、ムレシュ川沿いにムレシュ防衛戦を建設、徹底抗戦を行う。 そこから8か月、防衛戦が続いた。 日本軍の派兵が減っていくのに反比例し、トランシルヴァニアの軍隊は増えていった。 連合軍による「社会主義は侵略者」というイメージの刷り込みにより、ルーマニアは卑劣な侵略者として扱われ、現地の主権がルーマニアに奪われるとされたからである。 その点ルーマニア軍はこの戦争に懐疑的であり、「トランシルヴァニアをこれ以上奪還するためにこれより多い被害を出す必要があるのか」と思い始め、前線に派兵される軍隊は次第にソヴィエト連邦軍が主体となっていった。 その上、ソヴィエト連邦軍も「ここまでしてルーマニアを護るべきなのか」と思い始めるようになり、次第に敵は前線にいる連合軍から背後へ立つNKVDへと変わりつつあった。 そして11月。遂に戦線が動いた。アラド方面よりティミショアラへ進軍。士気が下がりつつあったコミンテルン軍は敗退し、南スラヴ国境沿いからティミショアラへかけて占領した。 そのまま東部へ攻勢、3週間後にはシビウを奪還し、その後カルパティア山脈まで到達。北上して前線のコミンテルン軍を包囲あい、2か月でこれを殲滅。 これに対しルーマニア政府は停戦を決意し、ベオグラードにて休戦条約を結んだ。 国境は戦前と同じようになり、完全なる無駄戦であった。 - 第五章 道筋 - ルーマニア戦争という歴史のターニングポイント。そこからはさすがに平和へと歩み始め、1955年1月。 臨時的な組織であった国際連合は1949年の第一次組織改革(加盟国家関連)と1951年の第二次組織改革(軍事関連)により国際連合加盟国より募った軍隊の連合を「連合軍」とすることや、戦争に火種となる紛争への積極的介入、貧困地域への積極的支援などを行うと決めた。 コミンテルンはソヴィエト連邦、ルーマニア、トゥヴァ、モンゴル、ブルガリア、南スラヴへと拡大した。主に選挙を通した実に"民主的"な方法で。 ...南スラヴのみ社会主義革命による王政の打破であったが(国王と関係者はドナウ連邦に亡命した。) アメリカはルーマニア戦争の終結以来支援の大義名分を失い、その後からは不介入を続け、米大陸内でブロック経済のような経済政策を行い、ドルの他大陸への流出はカナダを経由したもの程度にかぎられ、ドルの影響力は下がり、代わりとしてアジア地域では円が、コミンテルンではルーブルが、その他の欧州とアフリカでは再びポンドが主流となった。米大陸、国際連合、コミンテルンの3つに世界は分裂した。 ...この"分割"された世界はどのように変貌していくのだろうか。