[最初に] はじめに断っておきますが、本稿で述べる内容は、あくまでも私個人の思想・考え方をまとめたものであり、絶対的な正解や唯一の真理を主張するものではありません。外交というテーマには多様な価値観や解釈が存在し、何を正しいとするかは立場や経験によって異なります。本稿も、その数ある見方の一つとして読んでいただければ幸いです。 ────────────────────────────────── 「利益が欲しいか」と問われたとき、「はい、欲しいです」と答える人は多いでしょう。なぜなら、利益とは多くの人にとって、尽きることのない欲求を満たすための糧だからです。それでは逆に、「損をしたいか」と問われたときには、誰もが口をそろえて「いやです」と苦笑を浮かべるでしょう。その理由は単純明快です。損失とは自らの利益を削り、時には生活や将来までも脅かしかねないものだからです。国家もまた例外ではありません。外交とは、理想や善意だけで成り立つものではなく、自国の利益を守り、時には拡大するための営みです。もちろん友好や国際協調は重要ですが、それらも最終的には自国の安全や繁栄という利益に結び付くからこそ価値を持ちます。ゆえに外交を理解する第一歩は、「国家は利益を追求し、損失を避けようとする存在である」という、ごく人間的で普遍的な性質を認識することにあるのです。さて、この話は仮想国家コミュニティにも、そのまま当てはまります。もっとも、仮想国家における「国家」とは、あくまでテキスト上に存在する概念にすぎません。したがって、私が着目したいのは国家そのものではなく、その背後にいる「人間」です。ここでの国家とは、管理者同士の間に置かれる一種のクッションであり、同時に理性を保つための装置でもあります。その国家という器には、管理者自身の思想や価値観、願望が色濃く投影されています。言い換えれば、管理者は自身の分身ともいえる国家を外交という舞台へ送り出すのです。このような性質を踏まえれば、本来交渉すべきなのは管理者ではなく、国家同士です。しかし現実には、その外交という手続きを煩わしく感じ、国家を介さず管理者同士が直接やり取りを始めてしまう場面が少なくありません。これこそが、いわゆる「無次元」の縮図です。そこでは国家という理性のクッションが失われ、外交ではなく管理者同士の直接的な対話へと変質します。その結果、国家間の利害調整として処理されるはずの問題が個人間の感情へと置き換わり、対立は過度に激化し、時には過度な対立を、時には過度な馴れ合いを招くことになります。つまり、外交とは単に国家同士が会話する技術ではありません。国家という概念を間に挟むことで、人間同士の感情を適切な距離へと押し戻し、利害を理性的に調整するための仕組みでもあるのです。しかしながら、国家を介してもなお戦争がなくならない現状は、現実世界の我々にも通ずるものがあります。 「戦争は、外交の失敗以外の何物でもない。」 ピーター・ドラッカーというオーストリア出身の経営学者が放ったとされるこの言葉は、まさに私の思想を表しています。(補足として、英語圏ではイギリスの政治家トニー・ベンの発言とする見解もありますが、本稿ではドラッカーの言葉として扱います。)では、この言葉を仮想国家コミュニティに置き換えるとどうなるでしょうか。私は、「崩壊は、外交の失敗以外の何物でもない」と考えています。もちろん、ここでいう「崩壊」とは国家が消滅することだけを意味するのではありません。管理者同士の信頼関係が失われること、国家という建前が崩れ個人同士の対立へと変質すること、さらにはコミュニティそのものの活力が失われていくことも含みます。仮想国家における戦争とは、兵器を交えることではなく、人間関係の断絶です。そして、その多くは外交が存在しなかったからではなく、外交が本来果たすべき役割を果たせなかった結果として生じます。外交とは敵を打ち負かす技術ではありません。互いの利益を調整し、対立を管理し、最終的には国家同士の衝突を管理者同士の感情へと変質させないための技術です。ゆえに、優れた外交とは戦争を起こすことではなく、戦争を起こさせないことにあります。最後に、私は仮想国家コミュニティにおける外交とは、単なる国家間の交渉技術ではなく、人と人との感情を国家という理性のもとに制御し、対立を利益の調整へと昇華させるための営みであると考えています。戦争を起こすことは誰にでもできます。しかし、戦争を起こさせないことこそが外交の本質であり、その積み重ねが国家を、そしてコミュニティそのものを存続させるのです。戦争は歴史に残ります。しかし、戦争を未然に防いだ外交は、往々にして歴史には残りません。それでもなお、国家を存続させ、コミュニティと人間関係を育み続ける最大の功績は、戦争ではなく外交にこそあるのです。