街の片隅、夕闇がしっとりと降り始める頃になると、ひっそりと灯りがともる小さな店がある。 木製の看板には古びた金の文字で「Avilfé」と刻まれていた。 ガラス越しに見えるのは無数のオルゴールたち。だが、その音色を聞いた者は、二度と静かな夜を過ごすことができないという。 店主は「アンレリア」。 長い黒髪を一つに束ね、血のように赤い瞳を持つ。 感情をほとんど表に出さないが、その奥底には、静かな狂気が灯っている。 彼女が作るオルゴールは、どれも美しく、どれも「何か」を宿していた。 ある日の放課後、15歳の少女マリーがその店の前に立っていた。 学校では人気者だが、退屈を嫌い、刺激を求める性格。 「死ぬほど美しい音が聞ける」と噂を聞いて、面白半分で扉を開けた。 「いらっしゃいませ」 アンレリアの声は氷のように冷たかった。 マリーは怯むことなく、棚に並ぶオルゴールを指差した。 「この一番奥の、それが“例の音”を出すやつ?」 アンレリアは静かに頷き、オルゴールの蓋を開いた。 音が鳴った瞬間、店内の空気が凍りついた。 透明で、どこか懐かしく、それでいて深い悲しみを孕んだ旋律。 マリーの瞳が虚ろになり、しばらくして微笑んだ。 「……綺麗。まるで夢みたい」 アンレリアは淡く微笑んだ――それが、この店で見せる唯一の感情だった。 その一週間後、無須賀課長が警察から派遣されて店を訪れた。 「このあたりで少女が行方不明になってね。最後にここへ入るのを見たらしい」 アンレリアは静かに首を傾げた。 「お客様は多いので、覚えておりませんわ」 無須賀はため息をつきながら、棚の上のオルゴールに目を留めた。 「ずいぶん古風だね。……ひとつ、聞かせてもらっても?」 アンレリアはわずかに目を細め、箱を差し出した。 「この音は、魂を癒やすと言われています。お疲れの方にはぴったりかと」 無須賀は冗談半分にゼンマイを巻いた。 流れ出す旋律―― その音は、確かに心を安らげるようで、同時に心の奥を蝕むようでもあった。 「……不思議だ。泣きそうになる」 「それは、記憶の音です」 アンレリアの声がかすかに震えた。 「聞いた者の“最後の感情”を奏でるのです」 無須賀の机の上に、一つのオルゴールが置かれていた。 蓋を開けると、例の旋律が流れる。 そして、彼は静かに倒れた。 口元には、どこか安らかな笑みが浮かんでいたという。 アンレリアはその夜、店の奥で新しいオルゴールを磨いていた。 中にはマリーの笑い声が、わずかに残っている。 「次は、どんな音を作ろうかしら」 赤い瞳がゆらめき、月光の中で不気味に輝いた。 もしあなたが街で「アヴィルフェ」を見かけたら、決して扉を開けてはいけない。 その音色は、あなたの“最期の感情”を奏でるかもしれないから。
夜明け前の霧の街に、カン…カン…と、規則的な音が響いていた。 古い時計塔の鐘が鳴るたびに、アンレリアは薄暗い店の奥で作業を止め、黙って天井を見上げる。 あの鐘の音を聞くと――心の奥に、あの夜の光景が蘇るのだ。 アンレリアがまだ十歳だったころ。 彼女は「機械師の娘」と呼ばれていた。 母は天才的な時計職人で、貴族たちに高価な懐中時計を作っていた。 だが、その技術の中には、人の“魂”を歯車に閉じ込める禁忌の術が隠されていた。 母はある日、病に倒れた夫――つまりアンレリアの父のために、それを使ってしまった。 母の心臓の代わりに、銀の歯車を埋め込み、命をつなぎ止めたのだ。 「これで、彼は永遠に私のそばにいる」 そう言った母の声は震えていた。 けれど、父の瞳はもう、どこを見ているのか分からなかった。 微笑みも、涙も、すべてが機械仕掛けの動きになっていた。 ある夜、工房が火事になった。 火元は父の胸――歯車が狂い、火花を生んだ。 母は父を抱きしめたまま燃え落ち、アンレリアだけが生き残った。 そのとき、ホーキの左手には、焦げたオルゴールが握られていた。 母の心音を模して父が作ったものだった。 焼け焦げた箱の中では、まだかすかに“カチカチ”と歯車が回っていた。 それから年月が過ぎ、ホーキは一人で店を開いた。 父の遺した設計図を元に、オルゴールを作る仕事を始めた。 だが、彼女が作るオルゴールは、すべてどこか“生きていた”。 なぜなら―― ホーキは、音を「心」で作っていたからだ。 彼女は人の“最期の声”を聞き、それを旋律に変える術を身につけてしまった。 泣き声、笑い声、断末魔。 どんな音も、オルゴールの歯車に閉じ込められる。 そしてそれを聞いた者は、音の主と同じ死を迎える。 夜更け。 ホーキは店の奥でひとつの箱を磨いていた。 そこには古い刻印があった。 ――“A・F” それは、彼女の母の名。アンレリア・フリーデ。 「あなたの作った“心”は、まだ動いているのね」 アンレリアは微笑み、箱の蓋を開けた。 オルゴールが鳴り出す。 それは、父の心臓の音だった。 だが今夜は違った。 音に混じって、低い囁きが聞こえた。 「アンレリア……戻っておいで……」 アンレリアは目を見開き、赤い瞳が震えた。 次の瞬間、棚のオルゴールたちが一斉に鳴り出した。 歯車が狂ったように回転し、空気が震え、店全体が音に呑まれていく。 翌朝。 「アヴィルフェ」はもぬけの殻だった。 店の中央には、ひとつのオルゴールが置かれているだけ。 その中には、小さな歯車と黒髪の一房が入っていた。 オルゴールは今も、微かに奏でている。 父の、そしてアンレリア自身の、心臓の音を――。