===太田順也はzunさんの本名です。 ~~~ZUNさん幻想入り物語 第一話~~~ 太田順也(zun)は、リュックの肩紐を強く握り直しながら、大きく息を吐き出した。 日常の喧騒、締め切り、都会の息詰まるようなコンクリートの匂い。それらすべてから逃れ、純粋なインスピレーションを求めてやってきた単独の山行。人跡未踏とまではいかないが、観光客の寄り付かない深く古い山道を選んだはずだった。 「少し、入り込みすぎたか……」 立ち止まり、周囲を見渡す。いつの間にか、木々に巻かれていた登山道の目印テープは途絶えていた。 山の天気は変わりやすいと言うが、今の状況は「天気の変化」という言葉では説明がつかなかった。足元から湧き出すように発生した濃霧が、まるで意志を持っているかのように順也の足に絡みつき、視界を極端に狭めている。 ポケットからスマートフォンを取り出すが、当然のように「圏外」の文字。GPSの現在地を示す青い点は、灰色の地図上で虚しく点滅を繰り返すだけだった。 引き返そう。そう決意して振り返ったものの、自分がたった今まで歩いてきたはずの獣道すら、乳白色の闇に飲まれて消滅していた。右も左も、前も後ろもわからない。方向感覚が完全に麻痺していく。 静寂が、鼓膜を圧迫するほどに重い。 鳥の鳴き声も、風が葉を揺らす音も、虫の羽音すら聞こえない。ただ、自分の心臓の音と、ザクッ、ザクッと落ち葉を踏む足音だけが異様に大きく響く。 歩き続けてどれくらい経っただろうか。時間の感覚すら曖昧になっていく中、順也は空気の「質」が決定的に変わったことに気がついた。 ひんやりとしているのに、どこか甘ったるい。嗅いだことのないような、むせ返るような花の香りが混ざっている。そして、見えないはずの濃霧の奥から、無数の視線を感じる。 木々の隙間、岩の裏側、霧のベールの向こう。そこに「人間ではない何か」が潜み、こちらを興味深げに覗き込んでいるような、ヒリヒリとした錯覚。 空間そのものが歪んでいるような目眩を覚えた。 足元の土の感触が、いつの間にかふかふかとした見知らぬ草の感触に変わっている。 パツン、と。 まるで、極限まで張り詰めた糸が切れたような。あるいは、見えない巨大な水風船が弾けたような。 小さな、しかし決定的な音が耳の奥で鳴った瞬間、順也を包み込んでいた濃霧が、嘘のように一瞬で吹き飛んだ。 「……嘘だろ」 順也は呆然と立ち尽くした。 そこは、さっきまで歩いていた日本の薄暗い山林ではなかった。 見たこともないほど鮮やかな色彩の花々が咲き乱れる、見渡す限りの野原。空は現実離れした透明な青色をしており、遠くには威容を誇る巨大な山と、陽光を反射してキラキラと輝く見慣れない形の湖が見える。 肺を満たす空気が、恐ろしいほどに澄み切っている。現代のどこを探しても、こんな場所は存在しない。インスピレーションを探しに来た彼自身でさえ、想像の範疇を超えた光景だった。 ふと、上空で衣擦れのような音がした。 警戒して見上げると、太陽を背にして「何か」がフワリと降りてくる。 「あら、珍しいわね。外の世界の人間が迷い込んでくるなんて」 鈴を転がすような、しかしどこか飄々とした声。 着地したのは、紅白の巫女装束を纏ったひとりの少女だった。彼女は重力を無視したように宙に数センチ浮きながら、興味深そうに順也を見下ろしている。その手には、お祓い棒が握られていた。 「ここは……どこですか?」 順也が絞り出すように尋ねると、巫女は不思議そうな顔をして首を傾げた。 「どこって、見ればわかるでしょ? 人と妖怪が暮らす場所、幻想郷よ」 それが、太田順也と『博麗霊夢』、そして後に彼自身がそのすべてを描き出すことになる『幻想郷』との、最初の出会いだった。